布斗麻邇の御灵は、天地自然の神躰にして、自邇(ジニ)なる神の教へなる事を説。さて、其躰と云は、目に見えさるの水火を神(火水)と云、目に見ゆるの火水を、是をヒミヅとも、ヒトとも号(なづ)くる也。其(その)目に見えさるの躰を、目に見せしむるの教えは、此御灵の形也。一円形にして、八に割(さき)わかれて、一けた毎に五十言の五字一行を書て合するときは、一円の灵となり、開くときは大八嶋の形となる。是を、相と号(なづく)る。然るに、今此御灵の神宝をは、何れの処にか鎮坐し玉ふや。答て云く。丹波国桑田郡上佐伯村、御灵大明神是(これ)也。年々七月十四日、神事にして、禁裡御所より御献燈これあり。
p.376
又、下佐伯村に稗田八幡宮有(あり)。是は、彼(かの)古事記を書故を以(もて)、阿礼か灵を此(ここ)に祭り玉ふ。其外、大阪生玉明神、是等(これら)はいまた志道の拝せさる処也。次に、名を解(とか)は、先(まづ)布斗麻邇の名の出る所は、古事記神代巻に一、二ヶ所あり。初めに、イサナキ、イサナミの二柱の神、みとのまくはいし玉ふ所に、天つ神に申し玉ひて、布斗麻邇の御灵に占(ウラ)へての玉ふと云事有。又、押穂耳(ヲシホニ)の尊、此国に下り玉ふ時、諸(もろもろ)の神の臣達添て降らるゝ時、天津小屋根の尊は神業の元(モト)を能(よく)しれりとて、布斗麻邇の占(ウラヘ)ことを以(もて)、つかへて降り玉ふとあり。今一ヶ所、中巻三十九右、伊久米伊理毘古(イクメイリヒコ)、伊佐知(イサチ)の命、沙本毘売(サホヒメ)の命、娶合(ミアヒ)有て、王本牟知和氣(ミコホムチワケ)の命を産。是(この)御子、八拳鬚(ヤツカヒケ)心前(むなさき)に至るまで、真事(まこと)とはす。かれ、ここに高行(たかゆく)鵠(カサヽキ)の言をきゝ、初めてあきとひし玉ふへき。其鳥もちて奉りき。其鳥を見玉へは、ものいはんとおもほして、おもほすか如くいひ玉ふことなかりき。こゝに、すめらかみと憂ひ玉ひて、み子(ね)ませるとき、夢にさとしたまはり、あかみやをおふきみのみあらかのこと作り玉はゝ、みこ必(かならず)まこととはん。こゝに、すめらかみと憂ひ玉ひて、み子(ね)ませるとき、夢にさとしたまはり、あかみやをおふきみのみあらかのこと作り玉はゝ、みこ必(かならず)まこととはん。かくさとし玉ふとき、ふとまにの御灵にうらへて、うつけかみのみこゝろそともとむるに、そのたゝりは、いつものおほかみのみこゝろなりき、等とあり。しかれは、天津児屋根の命とは、布斗麻邇の占(ウラ)へことを宰とる役をもて、藤原氏の祖にして、水火の伝への御先祖なり。
p.377
然れは、布斗麻邇の御灵は、万物のおこりをはりの神業を知の御灵なること明也。水火は即、天地の躰のいき也。万物の主のいきなり。天地のいき順還する時は、国土安穏也。呼吸の息順還するときは、其人病なし。其息の動くに随ふて、自然に音を発す。是即、五列十行の五十言也。五十言と差別(ケチメ)するは、いき開合する故也。今、此布斗麻邇の御灵は、いき開合の根元を知(しる)の神宝ゆへに、此御灵を以(もて)推量るときは、儒仏はさら也、天地の間に教ふへき道に響かさる事なし。文字(フミ)なき時の教へなれは、更に文字に依(よら)ねとも、天より是を見る如く、地より是を聞如く、彼に闇(くら)く、是に明なりと云(いふ)差別(ケチメ)なし。是、人の教にあらす。人の業にあらす。神業にして、神の学ひなる故也。彼(カレ)に明なれとも、是に闇しと云は、文字(フミ)に依(よら)されは知す、依所(よりどころ)なけれは明ならすと。是と彼とを見合せて、押量るものは、人の業、人の学ひたる故也。今、仰いて以(もて)みれは、布斗麻邇の占(ウラ)へことは、久堅の天にしては、イサナキ、イサナミの御代に始まり、あらかねの地にしては、天津児屋根の尊、是を宰とる。然るに、人の代なりては、布斗麻邇の御名を知人(しるひと)も稀(まれ)也しか、此度杉菴志道、御灵の理(ことはり)を悟りて、万物の理を尽す故に、神代の学ひと云(いふ)を学へり。
p.378
右を勅許ありしも、宜(むべ)なるかな。時に、御灵の名義は、布斗麻邇のフは吹くこと。トは與むこと。マはまとかのこと。ニは水火の二つのこと。右の心は、火ふきて、水にくみて、まとかにいきこると云御名也。水火陰陽與合(クミアヒ)しを、教ふるの御名也。又、フトの反ホ、マニの反ミ、ホは正火の火の灵にして、ミは水中の水の灵也。即、火水の形を顕はすの御灵なる事を顕すの御名也。又、布斗麻邇の御名を、数(カス)の御伝へに会するとき、ヒフミヨイムナの七言、是(これ)自(おのづから)数(カス)の御灵と、其理(ことはり)自然と契当する也。先(まづ)ヒフミヨ。是は御灵ては、布斗(フト)の事也。イムナとは、御灵てはマニの事。それは如何と云に、ヒフミヨとは、ヒは火也。フは吹こと也。ミは水也。ヨは與事。是、火を吹て水に與(クム)と云こと。員(カス)の御灵ては、ヒフミヨと云教へ也。
斗麻邇の御名を、数(カス)の御伝へに会するとき、ヒフミヨイムナの七言、是(これ)自(おのづから)数(カス)の御灵と、其理(ことはり)自然と契当する也。先(まづ)ヒフミヨ。是は御灵ては、布斗(フト)の事也。イムナとは、御灵てはマニの事。それは如何と云に、ヒフミヨとは、ヒは火也。フは吹こと也。ミは水也。ヨは與事。是、火を吹て水に與(クム)と云こと。員(カス)の御灵ては、ヒフミヨと云教へ也。イムナと云は、イはイキのこと。ムはムツムこと。ナは幷(なら)ふことにして、即(すなはち)火吹て、水に與(クミ)、いきむつみならぶと云ことなれは、即布斗麻邇(フトマニ)の御灵の四言の御名を、七言に開きたる也。同く、いきの離合(クミハナレ)を教ふる御名也。御灵と数の御伝へとは、唯(ただ)開合の異なるのみ。先(まづ)、一粒の籾(モミ)、自(オノツカラ)春になると籾の胎内に火ふき、ふくれて夏になり、苗代に蒔て水に浸すか、是(これ)火水與(クム)所也。
p.379
是、與(クム)の始め也。又、員(かす)の御伝ては、ヒフミヨの四言に当る月に配しては、正月より四月なり。それより、正しく随かひて、地に與(クム)か水火(イキ)のむつむ所也。員の御伝ては、五六(イム)に当る。月に当れは、五月、六月に当る。それより、弥(いよいよ)いきむつみて花開(サキ)幷(ナラ)ふか、員の御伝へては七(ナ)に当たる。月に配すれば七月に当る。七月は、一切の万物始めて実を結ひ始むる時也。二つのいき、始めて一つのヽ(ホチ)の中に入なり。故に、七月七日に星合する。是(これ)、空に星と云者(いふもの)別に有て、相逢と云事には非す。ホシと云ことを解は、ホは正火の灵。シは昇水の水の灵也。六月まては、陽の火盛りにして、七月に至り、始めて陰の水氣に與(クミ)凝(こ)りて、土一つになるをホシ(星)と云。又、七夕(タナハタ)と云タは灵也。ナは幷ふ也。ハは火水(イキ)の二つのこと。タは列なること。二つの火水(イキ)の灵、幷ひつらなると云詞(ことば)にして、水火(イキ)の二つに與(クミ)て、竟にヽ(ホチ)になる所をナと云。幷ふと云こと、水は女、火は男、一夜の契(ちぎ)り也。終りた所に寄(よせ)て、設けた祭也。実は形なきを、形ある物に寄て設けて祭る也。自然のヽ(ホチ)より天地開け、天地和合して、万物を生する理を顕はして、即(すなはち)天地を祭る也。人は小天地なり。小を以(もて)大を知(しら)しむる祭りにして、必しも私に祭るとは惑ふへからす。又(また)生れての後(のち)七夜を祝ひ、又(また)七歳を祝ひ、正月の七日七草、七月の七日は秋の七夕也。其(その)春の七草の言を解は、ナは與(クム)こと、サは少なき也。
p.380
万物のイキ(火水)、與(クミ)そめの兆しを祝(イワフ)の名也。七夕は、既(すでに)とく。知へし。如レ此(かのごとく)名をなして、万物のみのりの数は、七つの数に極まる也。故に、七草はイキの與(クミ)そめ也。七つの数を以(もて)與(クミ)そめ、與(クミ)終りを顕はすゆへ、今此(この)布斗麻邇の御灵の名は、ヒフミヨイムナヤの七つの員(かず)に充(アテ)て、陰陽(イキ)與(くみ)て万物を生する事を教ふることの神宝故に、神代の巻には、彼二柱の神ミトノマクハイし玉ふ時に、イキ與(クム)の法(ノリ)をたかひて、女神よりアナニヤシエヲトコヲとの玉ふゆへに、ミコふさわず。ミコとは、水の凝也。これ、ヲミナ(女)の水、ヲトコの火に先たちしゆへ也。故に、天つ神申して、布斗麻邇にうらへて其法則(ノリ)改めて、先(まづ)男の火、水に入か故に、目出度(めでたく)国を産玉へり。国の詞は、クニの反キ也。キは影の火の灵にして、火を産玉へりと云こと也。是フトマニとは、火ふくれふきて、水に與(クム)と云教へなる故也。水より火に與(クム)にあらす。火より水に與(クミ)て、万物起さしむるの御名也。一切諸(もろもろ)、この法則に違(タガ)ふ時は物ならす。君臣父子夫婦兄弟、皆(みな)火水のいきの理也。君臣即(すなはち)火水の理、乃至(ないし)子孫又(また)父子にして、火水の理也。君臣火水の理に違(たが)ふときは、国不レ治。父子夫婦兄弟、同しく理に違(たが)ふ時は、家不レ治。皆、布斗麻邇の御灵に占(うら)へさるの故也。今、此五列十行の音も、水火離合動静によりて出る所の音の故に、此布斗麻邇の御灵に占へるときは、言々の根本を尽し、万物の音、何れのイキなること知れず云ことなし。
p.381
問曰。神代の巻の布斗麻邇の御灵と、今(いま)志道か家に崇めて伝へる御灵と同しきや、異なりや。答曰。意味深趣あり。曰、一にあらす、異にあらす。神代の巻の布斗麻邇の御灵と称するは、今志道か家に崇むる御灵の如き形をなしたる物にあらす。直に、天地陰陽の火水のイキの理をさして、御灵と号(なず)け玉ふ。即、上に云(いふ)御灵の開合、即(すなはち)離合動静にして、万物を生するの理にして、形ありて目に見る物にあらす。然れは、是を見聞ものは、千早振神の業にして、今人の代となりては、天地(イキ)万物を生するの理はあれとも、たゞ天地(カミ)のみ是を聞玉ふ。人は唯(ただ)、神の御伝へを聞て信するのみ。凡(おおよそ)人々を見ることあたはさるの神秘を、形をかりて見せ玉ふか、志道の家に伝はる御灵也。幷(ならひ)に、中に列子(つらね)たる五十言の形仮名は、もと五十言の音も、音にのみ有て形なし。依(より)て、形なき音を目に見せるか形仮名なり。故に、神代の巻の布斗麻邇の御灵に占(うら)へてとあるは、形ある物には非す。直に其灵、理をさす。其理に占へたる也。御灵の理をは、形あるやうに布斗麻邇の御灵に占へてとあるのは、是か神代巻の神秘也。更に、神代巻の一切に、二柱の神まくはいの法則を知玉はさりし時、せきれい鳥来りて、其尾を動かして教へしとある。此せきれいと云も、実の鳥と思ふは非也。如何と云に、二柱の神みとのまくはい玉ひて、諸有(アラユル)国々山々鳥獣草木まで産玉ふ。
p.382
それをは、いまたまくはいしたまはぬ先に、せきれいの鳥あるへきや知へし。せきれいとは何物そや。是、漢名也。和名は、トツキヲシヘ鳥と云。此名を解は、トは與(クム)こと。ツは連なること。キは水火(イキ)のこと。是、水火のいき、くみつらなることを教ふると云名也。そこを、トツキ教へ鳥と云たもの也。水火(イキ)と男女與(ヲメクミ)つらなるか、トツキ也。水火與(イキクミ)連なるは、是(これ)即(すなはち)布斗麻邇也。別のものに非す。既(すでに)説(とく)如(ごと)く、火水與(クミ)連(ツラ)なる所は、其理(ことはり)人の目に見えさる故に、後に人の目に見せん為に、尾頭を動かす鳥の形を借て顕はすか、神代の巻の神秘也。此神秘を、中古の国学者実を知すして、せきれいと誠の鳥と思ひ、大八島とあれは、西国に在(ある)八島と思惑ふ者は、己(ヲノレ)人の眼を以(もて)神代の神秘を見ることにして、神秘なる神代の巻を猥(みだり)に窺(うかが)ふ故也。陰陽火水和合の理(ことはり)は、心なき草木、慮(おもんぱかり)なき鳥獣迄も、教へすして自然と知。
何况(いわんや)、二柱の神、吾産なせる鳥に教へられて、天地水火和合して、国を産の理を知玉はんや。それに、神代の巻に天つ神に申して、布斗麻邇に占へてとある、又せきれいに教へられてと有は、是神秘也。
然れは、志道か家に古くより伝はる布斗麻邇の御灵は、何れの神、何れの人の作り玉へる事は知ねとも、人の目の見えさるの天地火水自然の理を、目に見するの法則也。水穂の法(ノリ)を暁(さと)り、万物をたゝす御宝也。又是、神の代を治め玉ふの道也。教也。然れは、理は一也。形を見るは別也。依て、一にもあらす、異にも非すと申す也。
(山口志道「言霊秘書」p.375-383)

p.376
又、下佐伯村に稗田八幡宮有(あり)。是は、彼(かの)古事記を書故を以(もて)、阿礼か灵を此(ここ)に祭り玉ふ。其外、大阪生玉明神、是等(これら)はいまた志道の拝せさる処也。次に、名を解(とか)は、先(まづ)布斗麻邇の名の出る所は、古事記神代巻に一、二ヶ所あり。初めに、イサナキ、イサナミの二柱の神、みとのまくはいし玉ふ所に、天つ神に申し玉ひて、布斗麻邇の御灵に占(ウラ)へての玉ふと云事有。又、押穂耳(ヲシホニ)の尊、此国に下り玉ふ時、諸(もろもろ)の神の臣達添て降らるゝ時、天津小屋根の尊は神業の元(モト)を能(よく)しれりとて、布斗麻邇の占(ウラヘ)ことを以(もて)、つかへて降り玉ふとあり。今一ヶ所、中巻三十九右、伊久米伊理毘古(イクメイリヒコ)、伊佐知(イサチ)の命、沙本毘売(サホヒメ)の命、娶合(ミアヒ)有て、王本牟知和氣(ミコホムチワケ)の命を産。是(この)御子、八拳鬚(ヤツカヒケ)心前(むなさき)に至るまで、真事(まこと)とはす。かれ、ここに高行(たかゆく)鵠(カサヽキ)の言をきゝ、初めてあきとひし玉ふへき。其鳥もちて奉りき。其鳥を見玉へは、ものいはんとおもほして、おもほすか如くいひ玉ふことなかりき。こゝに、すめらかみと憂ひ玉ひて、み子(ね)ませるとき、夢にさとしたまはり、あかみやをおふきみのみあらかのこと作り玉はゝ、みこ必(かならず)まこととはん。こゝに、すめらかみと憂ひ玉ひて、み子(ね)ませるとき、夢にさとしたまはり、あかみやをおふきみのみあらかのこと作り玉はゝ、みこ必(かならず)まこととはん。かくさとし玉ふとき、ふとまにの御灵にうらへて、うつけかみのみこゝろそともとむるに、そのたゝりは、いつものおほかみのみこゝろなりき、等とあり。しかれは、天津児屋根の命とは、布斗麻邇の占(ウラ)へことを宰とる役をもて、藤原氏の祖にして、水火の伝への御先祖なり。
p.377
然れは、布斗麻邇の御灵は、万物のおこりをはりの神業を知の御灵なること明也。水火は即、天地の躰のいき也。万物の主のいきなり。天地のいき順還する時は、国土安穏也。呼吸の息順還するときは、其人病なし。其息の動くに随ふて、自然に音を発す。是即、五列十行の五十言也。五十言と差別(ケチメ)するは、いき開合する故也。今、此布斗麻邇の御灵は、いき開合の根元を知(しる)の神宝ゆへに、此御灵を以(もて)推量るときは、儒仏はさら也、天地の間に教ふへき道に響かさる事なし。文字(フミ)なき時の教へなれは、更に文字に依(よら)ねとも、天より是を見る如く、地より是を聞如く、彼に闇(くら)く、是に明なりと云(いふ)差別(ケチメ)なし。是、人の教にあらす。人の業にあらす。神業にして、神の学ひなる故也。彼(カレ)に明なれとも、是に闇しと云は、文字(フミ)に依(よら)されは知す、依所(よりどころ)なけれは明ならすと。是と彼とを見合せて、押量るものは、人の業、人の学ひたる故也。今、仰いて以(もて)みれは、布斗麻邇の占(ウラ)へことは、久堅の天にしては、イサナキ、イサナミの御代に始まり、あらかねの地にしては、天津児屋根の尊、是を宰とる。然るに、人の代なりては、布斗麻邇の御名を知人(しるひと)も稀(まれ)也しか、此度杉菴志道、御灵の理(ことはり)を悟りて、万物の理を尽す故に、神代の学ひと云(いふ)を学へり。
p.378
右を勅許ありしも、宜(むべ)なるかな。時に、御灵の名義は、布斗麻邇のフは吹くこと。トは與むこと。マはまとかのこと。ニは水火の二つのこと。右の心は、火ふきて、水にくみて、まとかにいきこると云御名也。水火陰陽與合(クミアヒ)しを、教ふるの御名也。又、フトの反ホ、マニの反ミ、ホは正火の火の灵にして、ミは水中の水の灵也。即、火水の形を顕はすの御灵なる事を顕すの御名也。又、布斗麻邇の御名を、数(カス)の御伝へに会するとき、ヒフミヨイムナの七言、是(これ)自(おのづから)数(カス)の御灵と、其理(ことはり)自然と契当する也。先(まづ)ヒフミヨ。是は御灵ては、布斗(フト)の事也。イムナとは、御灵てはマニの事。それは如何と云に、ヒフミヨとは、ヒは火也。フは吹こと也。ミは水也。ヨは與事。是、火を吹て水に與(クム)と云こと。員(カス)の御灵ては、ヒフミヨと云教へ也。
斗麻邇の御名を、数(カス)の御伝へに会するとき、ヒフミヨイムナの七言、是(これ)自(おのづから)数(カス)の御灵と、其理(ことはり)自然と契当する也。先(まづ)ヒフミヨ。是は御灵ては、布斗(フト)の事也。イムナとは、御灵てはマニの事。それは如何と云に、ヒフミヨとは、ヒは火也。フは吹こと也。ミは水也。ヨは與事。是、火を吹て水に與(クム)と云こと。員(カス)の御灵ては、ヒフミヨと云教へ也。イムナと云は、イはイキのこと。ムはムツムこと。ナは幷(なら)ふことにして、即(すなはち)火吹て、水に與(クミ)、いきむつみならぶと云ことなれは、即布斗麻邇(フトマニ)の御灵の四言の御名を、七言に開きたる也。同く、いきの離合(クミハナレ)を教ふる御名也。御灵と数の御伝へとは、唯(ただ)開合の異なるのみ。先(まづ)、一粒の籾(モミ)、自(オノツカラ)春になると籾の胎内に火ふき、ふくれて夏になり、苗代に蒔て水に浸すか、是(これ)火水與(クム)所也。
p.379
是、與(クム)の始め也。又、員(かす)の御伝ては、ヒフミヨの四言に当る月に配しては、正月より四月なり。それより、正しく随かひて、地に與(クム)か水火(イキ)のむつむ所也。員の御伝ては、五六(イム)に当る。月に当れは、五月、六月に当る。それより、弥(いよいよ)いきむつみて花開(サキ)幷(ナラ)ふか、員の御伝へては七(ナ)に当たる。月に配すれば七月に当る。七月は、一切の万物始めて実を結ひ始むる時也。二つのいき、始めて一つのヽ(ホチ)の中に入なり。故に、七月七日に星合する。是(これ)、空に星と云者(いふもの)別に有て、相逢と云事には非す。ホシと云ことを解は、ホは正火の灵。シは昇水の水の灵也。六月まては、陽の火盛りにして、七月に至り、始めて陰の水氣に與(クミ)凝(こ)りて、土一つになるをホシ(星)と云。又、七夕(タナハタ)と云タは灵也。ナは幷ふ也。ハは火水(イキ)の二つのこと。タは列なること。二つの火水(イキ)の灵、幷ひつらなると云詞(ことば)にして、水火(イキ)の二つに與(クミ)て、竟にヽ(ホチ)になる所をナと云。幷ふと云こと、水は女、火は男、一夜の契(ちぎ)り也。終りた所に寄(よせ)て、設けた祭也。実は形なきを、形ある物に寄て設けて祭る也。自然のヽ(ホチ)より天地開け、天地和合して、万物を生する理を顕はして、即(すなはち)天地を祭る也。人は小天地なり。小を以(もて)大を知(しら)しむる祭りにして、必しも私に祭るとは惑ふへからす。又(また)生れての後(のち)七夜を祝ひ、又(また)七歳を祝ひ、正月の七日七草、七月の七日は秋の七夕也。其(その)春の七草の言を解は、ナは與(クム)こと、サは少なき也。
p.380
万物のイキ(火水)、與(クミ)そめの兆しを祝(イワフ)の名也。七夕は、既(すでに)とく。知へし。如レ此(かのごとく)名をなして、万物のみのりの数は、七つの数に極まる也。故に、七草はイキの與(クミ)そめ也。七つの数を以(もて)與(クミ)そめ、與(クミ)終りを顕はすゆへ、今此(この)布斗麻邇の御灵の名は、ヒフミヨイムナヤの七つの員(かず)に充(アテ)て、陰陽(イキ)與(くみ)て万物を生する事を教ふることの神宝故に、神代の巻には、彼二柱の神ミトノマクハイし玉ふ時に、イキ與(クム)の法(ノリ)をたかひて、女神よりアナニヤシエヲトコヲとの玉ふゆへに、ミコふさわず。ミコとは、水の凝也。これ、ヲミナ(女)の水、ヲトコの火に先たちしゆへ也。故に、天つ神申して、布斗麻邇にうらへて其法則(ノリ)改めて、先(まづ)男の火、水に入か故に、目出度(めでたく)国を産玉へり。国の詞は、クニの反キ也。キは影の火の灵にして、火を産玉へりと云こと也。是フトマニとは、火ふくれふきて、水に與(クム)と云教へなる故也。水より火に與(クム)にあらす。火より水に與(クミ)て、万物起さしむるの御名也。一切諸(もろもろ)、この法則に違(タガ)ふ時は物ならす。君臣父子夫婦兄弟、皆(みな)火水のいきの理也。君臣即(すなはち)火水の理、乃至(ないし)子孫又(また)父子にして、火水の理也。君臣火水の理に違(たが)ふときは、国不レ治。父子夫婦兄弟、同しく理に違(たが)ふ時は、家不レ治。皆、布斗麻邇の御灵に占(うら)へさるの故也。今、此五列十行の音も、水火離合動静によりて出る所の音の故に、此布斗麻邇の御灵に占へるときは、言々の根本を尽し、万物の音、何れのイキなること知れず云ことなし。
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問曰。神代の巻の布斗麻邇の御灵と、今(いま)志道か家に崇めて伝へる御灵と同しきや、異なりや。答曰。意味深趣あり。曰、一にあらす、異にあらす。神代の巻の布斗麻邇の御灵と称するは、今志道か家に崇むる御灵の如き形をなしたる物にあらす。直に、天地陰陽の火水のイキの理をさして、御灵と号(なず)け玉ふ。即、上に云(いふ)御灵の開合、即(すなはち)離合動静にして、万物を生するの理にして、形ありて目に見る物にあらす。然れは、是を見聞ものは、千早振神の業にして、今人の代となりては、天地(イキ)万物を生するの理はあれとも、たゞ天地(カミ)のみ是を聞玉ふ。人は唯(ただ)、神の御伝へを聞て信するのみ。凡(おおよそ)人々を見ることあたはさるの神秘を、形をかりて見せ玉ふか、志道の家に伝はる御灵也。幷(ならひ)に、中に列子(つらね)たる五十言の形仮名は、もと五十言の音も、音にのみ有て形なし。依(より)て、形なき音を目に見せるか形仮名なり。故に、神代の巻の布斗麻邇の御灵に占(うら)へてとあるは、形ある物には非す。直に其灵、理をさす。其理に占へたる也。御灵の理をは、形あるやうに布斗麻邇の御灵に占へてとあるのは、是か神代巻の神秘也。更に、神代巻の一切に、二柱の神まくはいの法則を知玉はさりし時、せきれい鳥来りて、其尾を動かして教へしとある。此せきれいと云も、実の鳥と思ふは非也。如何と云に、二柱の神みとのまくはい玉ひて、諸有(アラユル)国々山々鳥獣草木まで産玉ふ。
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それをは、いまたまくはいしたまはぬ先に、せきれいの鳥あるへきや知へし。せきれいとは何物そや。是、漢名也。和名は、トツキヲシヘ鳥と云。此名を解は、トは與(クム)こと。ツは連なること。キは水火(イキ)のこと。是、水火のいき、くみつらなることを教ふると云名也。そこを、トツキ教へ鳥と云たもの也。水火(イキ)と男女與(ヲメクミ)つらなるか、トツキ也。水火與(イキクミ)連なるは、是(これ)即(すなはち)布斗麻邇也。別のものに非す。既(すでに)説(とく)如(ごと)く、火水與(クミ)連(ツラ)なる所は、其理(ことはり)人の目に見えさる故に、後に人の目に見せん為に、尾頭を動かす鳥の形を借て顕はすか、神代の巻の神秘也。此神秘を、中古の国学者実を知すして、せきれいと誠の鳥と思ひ、大八島とあれは、西国に在(ある)八島と思惑ふ者は、己(ヲノレ)人の眼を以(もて)神代の神秘を見ることにして、神秘なる神代の巻を猥(みだり)に窺(うかが)ふ故也。陰陽火水和合の理(ことはり)は、心なき草木、慮(おもんぱかり)なき鳥獣迄も、教へすして自然と知。
何况(いわんや)、二柱の神、吾産なせる鳥に教へられて、天地水火和合して、国を産の理を知玉はんや。それに、神代の巻に天つ神に申して、布斗麻邇に占へてとある、又せきれいに教へられてと有は、是神秘也。
然れは、志道か家に古くより伝はる布斗麻邇の御灵は、何れの神、何れの人の作り玉へる事は知ねとも、人の目の見えさるの天地火水自然の理を、目に見するの法則也。水穂の法(ノリ)を暁(さと)り、万物をたゝす御宝也。又是、神の代を治め玉ふの道也。教也。然れは、理は一也。形を見るは別也。依て、一にもあらす、異にも非すと申す也。
(山口志道「言霊秘書」p.375-383)

記事更新日:2026/01/24


































































































































