■紀元前20世紀~15世紀
契約と割礼
アブラムが九十九歳になったとき、主はアブラムに現れて言われた。
「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい。わたしは、あなたとの間にわたしの契約を立て、あなたをますます増やすであろう。」アブラムはひれ伏した。神は更に、語りかけて言われた。
「これがあなたと結ぶわたしの契約である。あなたは多くの国民の父となる。あなたは、もはやアブラムではなく、アブラハムと名乗りなさい。あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたをますます繁栄させ、諸国民の父とする。王となる者たちがあなたから出るであろう。
わたしは、あなたとの間に、また後に続く子孫との間に契約を立て、それを永遠の契約とする。そして、あなたとあなたの子孫の神となる。わたしは、あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。わたしは彼らの神となる」
旧約聖書「創世記」(第17章・第1~8節)
アブラハムが神との契約で約束されたカナンの土地は、エジプトの川からユーフラテスの川までの領域とされ、現在のイスラエルとヨルダン川西岸地区全域になります。
聖書時代(紀元前17世紀~6世紀)
紀元前17世紀頃、ユダヤ民族の族長であるアブラハム、イサク、ヤコブがイスラエルの地カナンに定住しますが、飢饉により、イスラエルの民はカナンから離れ、エジプトへの移住を余儀なくされます。イスラエルの民はエジプトで奴隷のような生活を強いられたことから、紀元前13世紀頃、イスラエルの民はモーセに率いられてエジプトを脱出し、シナイ砂漠を40年間放浪しました。その間にモーセはシナイ山でヤハウェの神から十戒を授かります。その後、イスラエルの民はイスラエルに定住します。そして紀元前1000年頃にイスラエル王国が誕生します。
古代イスラエル初代王サウル(紀元前1000年頃)
古代イスラエル第二代王ダビデ(在位:紀元前1000年~961年)
⇒首都をエルサレムとする。
古代イスラエル第三代王ソロモン(在位:紀元前971年~931年)
⇒エルサレム神殿が建設される。
紀元前931年にイスラエル王国は南北に分裂し、北はイスラエル王国、南はユダ王国になり、エルサレムはユダ王国の都となります。その後、紀元前722年~720年にかけて、イスラエル王国がアッシリアとの戦いに敗れ、10部族がイスラエル王国から追放されます。これを失われた10部族といいます。紀元前586年には、ユダ王国がバビロニア(現在のイラク)によって征服され、エルサレムは陥落し、大半のユダヤ人が捕虜としてバビロニアに連行されました。これをバビロニア捕囚といいます。
※紀元前660年:初代神武天皇の即位(日本)
第二神殿時代
バビロニア捕囚から約50年後の紀元前538年頃からは、多数のユダヤ人が解放され、帰還し、神殿を再建します。
ローマ支配
紀元前63年、ローマ軍司令官ポンペイがエルサレムを占拠し、エルサレムはローマ帝国の属領となりました。その後、ユダヤ人が反乱を起こし、二度にわたってユダヤ戦争が起こりました。しかし、ローマ軍が制圧し、ユダヤ人はエルサレムでの居住を禁じられました。こうして、ローマ帝国に滅ぼされ故郷を失ったユダヤ人たちは、ヨーロッパを中心とした各地に離散していきました。
西暦とは、キリスト教で救世主とみなされるイエス・キリストが生まれたとされる年を元年(紀元)とする紀年法と、イエス・キリストがユダヤ人として割礼を受けた日を紀元1年1月1日とする紀年法があります。西暦は、「主(イエス・キリスト)」の年」を意味するラテン語 Anno Domini を略して A.D. または AD と表記されます。このことから、イエス・キリストが活躍したのは AD30年ということになります。
ユダヤ人のように、もともと暮らしていた国家や居住地から離散して生きる人々や集団をディアスポラといいます。離散した多くのユダヤ人は、中東から近い東欧やロシア、ドイツに逃げました。一般的に、イタリア、スペインなどの南欧、トルコ、アフリカに移った人々はセファルディム系ユダヤ人、ドイツ語圏、東欧諸国に定住した人々はアシュケナジー系ユダヤ人といわれます。
ヨーロッパからユダヤ人排斥を始めたのはローマ・カトリック教会の教皇です。ヒトラーが行ったユダヤ人排斥の行為は、13世紀にローマ教皇がしたことを20世紀に再現したものです。ヨーロッパでは、ユダヤ人に対する差別が中世から続いてきました。理由として、以下のような点が考えられます。
1.イエス・キリストを処刑したのはユダヤ人であり、かつ、パレスチナでキリスト教徒が厳しく弾圧されていたこと。
2.キリスト教徒が宗教的に従事できない「金融」に、流民のため職業上の差別を受けていたユダヤ人たちが目をつけ、金融を仕事にすることで裕福になったこと。
3.ユダヤ教の戒律が厳しく、かつ選民思想を持つこと。
ローマ帝国初期のキリスト教は、厳しい迫害の対象となっていました。暴君ネロによる迫害はよく知られています。
ところがその後、キリスト教信者が増加したのを受けて、ローマ帝国は392年にキリスト教を国教とし、それ以外の宗教を禁止しました。ただし、この時期におけるキリスト教は「新興宗教」とみなされていたこともあり、ユダヤ教が厳しく弾圧されていたわけではありません。
ユダヤ人の排斥運動が激化したのは19世紀から20世紀初めにかけてです。帝政ロシアやドイツで、ユダヤ人に対する集団的迫害(ボクロム)が広範囲に行われました。こうした反ユダヤ主義をきっかけに、19世紀後半以降、故郷であるエルサレムに国家を再建しようとする動きシオニズムが起こり、多くのユダヤ人がパレスチナに移住するようになりました。
第一次世界大戦後の1917年、パレスチナはイギリスの統治下になり、イギリスの政治家アーサー・バルフォアはユダヤ人の移住地の建設を約束しました(バルフォア宣言)。しかしこれと同時期に、イギリスの高等弁務官マクマホンがアラブ人の指導者フサインと密かに協定を結び、オスマン帝国の支配下にあったアラブ人(イスラム教)のパレスチナ移住を進めました(フサイン=マクマホン協定)。イギリスのこの二枚舌外交が、いまのパレスチナ問題を引き起こしました。このあとイギリスは、パレスチナから離れ、これらの問題を国連に委ねました。
ユダヤ人はバルフォア宣言に基づき、1920年頃からパレスチナへの入植を開始しており、第二次世界大戦中にナチス・ドイツによる大量虐殺(ホロコースト)がはじまると、さらに多くのユダヤ人がパレスチナに押しかけた。当然、パレスチナのアラブ人はこれに猛反発。各地で武力衝突やテロ活動が起こった。
そして第二次世界大戦終了後の1947年、イギリスがこの問題から逃げてパレスチナの委任統治を返上したため、国連はパレスチナをユダヤ独立国とアラブ独立国に分割すること(パレスチナ分割決議)で解決しようとしたが、アラブ人は国連の決議を受け入れない。パレスチナが内戦状態となるなか、ユダヤ人は1948年にイスラエルの建国を宣言した。
このよに、中世から近代、現代を通じて厳しく迫害されたユダヤ人は20世紀に入り、パレスチナにイスラエルを建国しました。これが、今なお続く激しい中東紛争を生み出したのです。

記事更新日:2024/05/23


















































































