
水穂伝附言
p.6
〇皇国(ミクニ)は、原(モト)より文字ちふものなく、言灵(コトタマ)の佐国(タスクルクニ)にして、五十連(イツラ)十行の形仮名(カタカナ)は神代の御書(ミフミ)なり。是をもて、天地及万物の初発(ハジマリ)を知て、一として足はすといふことなし。然るに、人皇十六代、応神天皇の御宇、百済(クタラ)より王仁(ワニ)来て多(さは)の書籍(フミ)を奉(たてまつる)。それより、漢(カラ)国の学代々に行れける。時に人皇四十代、天武天皇の朝、神代の旧辞(フルコト)既に滅(ホロヒム)ことを潭憂(フカクウレヒ)給、稗田阿礼(ヒエタノアレ)に二十八歳の時詔(ミコトノリ)ありて(丹波国桑田郡上佐伯(サイキ)邑御灵大明神在下佐伯邑稗田八幡宮在例年七月十四日祭礼従ニ禁裏一御献燈在レ之)、天皇大御口(オホミクチ)つから御教置かれ給けるを、人皇四十三代、元明天皇の朝に至て、和銅四年太(フトノ)朝臣安万侶(ヤスマロ)に詔命(ミコトノリ)ありて、阿礼が覚たる神代の御伝を文字に記させ(阿礼六十六歳)、古事記と号(ナツケ)、皇国の大道(ミチ)を残置れ給ふ。(古事記は和銅四年九月詔命ありて同五年正月奉なり山城国稲荷神は四年二月の出現なり玆(ここ)をもて考るに稲荷の古伝と唱るものは阿礼の伝の残れるにや)。既に柿本人麻呂の歌に、(万葉集長歌略)志貴嶋倭国者事灵之所佐国叙真福與具(シキシマノヤマトノクニハコトタマノタスクルクニゾマサキクアレコソ)と共に、神代の正言(マサコト)失果(ウシナヘハテ)むことを惜(ヲシマ)るゝといへとも、事灵(コトタマ)の学は神の御伝にして凡人(タタヒト)の耳に入こと難く、文字の学は人の学として凡人(タタヒト)の眼に入こと易く、人の学に於て文字ほと易はなし。故に、人の代々移変(ウツリカハル)天地の自(おのづから)にして、何時(イツシカ)文字に眼移(マウツリ)して、源を捨(ステ)て流に染(ソミ)、言灵(コトタマ)の学は踈(オロソカ)になり、寛弘(クワンコウ)長和の頃まては(凡八百年余)行れしこと明なり。
p.7
夫(それ)より後に至ては知れる人も稀(マレ)にて、竟(ツヒ)には幾百年の間知れる人もなくなりにたり。然るに享保(1816年~1736年)の頃(凡百ヽ年)、荷田東麻呂(カタノアツママロ)ノ翁神代の言灵稲荷の古伝に在ことを、社務(シャム)親友(チカトモ)卿の伝によりて説れしといへとも、いまた時の至らさるにや、其学の潭(フカキ)を継(ツク)人なく、今の代となりては言灵の名のみ有て其法則(ノリ)を知れる人もなく(今の人言灵と唱るものは異説にして僻ことなり)、次第に俗学になれて、只(タヽ)博(ヒロク)書籍(フミ)をのみ見て、法則もなく彼方(カナタ)の詞と此方(コナタ)の詞を見合て憶度(オシカリ)に解(とき)、文字にはよらずと云つゝも、文字より外拠(ヨリトコロ)なければ、他(ヒト)の国の文字吾国の文字のことくになり、吾国の詞は他(ヒト)の国の詞の如になり、𪫧憐掛麻久母阿夜爾畏伎(アハレカケマクモアヤニカシコキ)神代の御伝隠(カクロヒ)たるにや。然るに享保(1816年~1736年)の頃(凡百ヽ年)、荷田東麻呂(カタノアツママロ)ノ翁神代の言灵稲荷の古伝に在ことを、社務(シャム)親友(チカトモ)卿の伝によりて説れしといへとも、いまた時の至らさるにや、其学の潭(フカキ)を継(ツク)人なく、今の代となりては言灵の名のみ有て其法則(ノリ)を知れる人もなく(今の人言灵と唱るものは異説にして僻ことなり)、次第に俗学になれて、只(タヽ)博(ヒロク)書籍(フミ)をのみ見て、法則もなく彼方(カナタ)の詞と此方(コナタ)の詞を見合て憶度(オシカリ)に解(とき)、文字にはよらずと云つゝも、文字より外拠(ヨリトコロ)なければ、他(ヒト)の国の文字吾国の文字のことくになり、吾国の詞は他(ヒト)の国の詞の如になり、𪫧憐掛麻久母阿夜爾畏伎(アハレカケマクモアヤニカシコキ)神代の御伝隠(カクロヒ)たるにや。茲(ここ)に己(オノレ)末の代に生て、常に吾言(モノイフ)ことの本をも知らすして過行(スキユク)ことをかなしみ、若かりし頃より思悩(ナヤム)といへとも、ながれを置て何の渚(ナギサ)にかよらむ。かゝるに、吾家に古(フルク)より伝(ツタハリ)て、布斗麻邇の御灵(フトマニのミタマ)と云伝るもの有て、小社(ホコラ)の内に祭る。此御灵(ミタマ)、五十連(イツラ)の十行を記(シルシ)たるものにして、ことの心も別難(ワキカタ)かりけり。然はあれとも、古今(イニシヘ)の言葉をかき集、博(ヒロク)天地の万物に合て、古事記神代(コジキノカミヨ)の巻に照(テラシ)て見て、三十年余(ミソヂアマリ)にして、竟(ツヒ)に布斗麻邇(フトマニ)の御灵は水火(イキ)の御伝(ミツタヘ)にして、形仮名(カタカナ)は神の御名ことより現(アラハ)るゝことをさとりて、曙漸白(アケホノヤウヤク)して、樹々の言葉(コトノハ)も文分頃(アヤワカルコロ)、文化十二年長月の末、荷田訓之(カタノノリユキ、下総国古河産)吾庵を尋来て古伝なるものを授(サツク)。然して、を其伝の余れる省(ハフキ)、足(タラ)ざるを補ひ、旦夕(アシタユフベ)に努(ツトメ)て御灵の灵なることを悟(サトル)。
p.8
〇皇国(ミクニ)の学は、万物一に止(トトマル)ことを原(モト)とす。故に、天地初発(アメツチノハジマリ)に一の凝(コリ)をなし、其凝(コリ)より火水(ヒミツ)の二ツに別て、火を父と云、水を母といふ。其父の火灵(カタマ)と母の水灵(ミタマ)と與(クミ)て、亦一ツの凝(コリ)をなす。其父の火灵(カタマ)と母の水灵(ミタマ)と與(クミ)て、亦一ツの凝(コリ)をなす。其凝の重(オモク)濁(ニゴリ)たるは形となり、軽(カルク)澄(スミ)たるものは息となり、其息母胎(ホタイ)を出て高(タカク)現(アラハレ)たるを音(コヱ)と云。其音(コヱ)の五十連(イツラ)なるを言灵といふ(五十連の音に灵有て活用を云)。其言々に幸(サキ)有、佐(タスケ)有、火水(ヒミツ)有。是を與(クミ)て詞をなす。然はあれとも、詞は音(コヱ)のみにして眼(メ)に見ること難(かたし)。そを眼に見するものを形仮名といふ。其形仮名をもて五十連の十行を記(しるす)。火水(ヒミツ)の言(コト)々を與(クミ)開(ヒラキ)、躰(タイ)用(ヨウ)軽(ケイ)重(チウ)清濁等の法則をもて、詞の本を明にし、天地の水火(イキ)と人間(ヒト)の水火(イキ)と同一なることを知りて、家国を治の本は己(オノ)が呼吸(コキフ)の息にあることを知る。博(ヒロク)天地のことわりを知むと欲せば、近は己か水火(イキ)を知にあり。是ぞ神国の教なる。既に古事記の神代(カミヨ)の巻と唱るも、火水與(カミヨ、イキクム)の巻と云義にして、天地の水火(イキ)を與(クミ)て万物を生し、人間(ヒト)の水火(イキ)を與(クミ)て言(モノイフ)ことの御伝(ミツタヘ)なり。
〇天地の間に眼に見えざるの火水(ヒミツ)あり。是を火水(カミ)といふ。水火(イキ)ともいふ。神(カミ)と唱(トナフ)るは躰(タイ)にして、水火(イキ)と唱るは用(ヨウ)なり。故に、陰陽(イキ)と陰陽(イキ)と與(クミ)て万物を産(ウム)なり。
〇人間(ヒト)の胎内(タイナイ)に火水(ヒミツ)あり。是を灵水火(タマシヒ)といふ。氣(イキ)ともいふ。魂(タマシヒ)と唱るは躰にして、息(イキ)と唱るは用なり。故に、息と息と與(クミ)て言(モノイヒ)、氣(イキ)と氣(イキ)と與(クミ)て人を産むなり。
p.9
〇天地は水火(イキ、シホ)の凝(コリ)なり。故に、日月の運行(メクル)は天の呼吸(コキフ)なり。汐(シホ)の満干は地の呼吸なり。人も水火(イキ、シホ)の凝(コリ)なり。故に、人の呼吸は波の列(ツラナル)に同(おなじ)。波もよする時に音(オト)をなして、引時に音(オト)なし。人も出息は音(コヱ)をなして、引息に音(コヱ)なし。人則(すなはち)小天地なり。
〇実(マコト)の火は象(カタチ)なし。是を火の躰(タイ)といふ。象を見する時は火中に水有。故に燃(モユル)。是を火の活用(ハタラキ)といふ。実の水は象なし。是を水の躰といふ。象を見する時は水中に火有。故に流(ナガル)。是を火の活用といふ。
〇火は躰にして水を動す。水は用にして火に動さるゝ。火は動すして音(コヱ)なし。水は動て音(コヱ)をなす。総て動さるものは火にして、動ものは水なり。故に、水に名をなすと云とも、動さるときは火なり。火に名をなすと云とも、動ときは水なり。譬(タトヘ)ていはゞ、水氣(ミキ)は水の名なり。火垂(ヒタリ)は火の名なり。然といへとも、右の手をもて左を打ときは、右の水は火となり、左の火は水となりて音(オト)をなす。亦云、木は水なり。鐘(カ子)は火なり。木をもて鐘を打ときは、鐘(カ子)は水となりて音(オト)をなし、鐘をもて木を打つときは、木は本の水となりて音(オト)をなす。火水躰用(ヒミツタイヨウ)は活物(クワツブツ)にして相対して動。天地の水火(イキ)回(めぐる)ことかくのことし。
p.10
《凡例》
〇此書は、布斗麻邇(フトマニ)の御灵をもて、神代の旧辞(フルコト)を解分(トキワクル)の法則を詳(ツマヒラカ)にす。五十連の十行は、所謂(イハユル)神代の経学(ケイカク)なり。尋常(ヨノツ子)の書籍(フミ)とは異なり。神の御心と人の心とは隔(ヘタタル)の故なり。後世に及ては、神代の御典(ミフミ)を解に、人間形勢(アリサマ)の如にいふ、辟(ヒガ)ことなり。天津(アマツ)神国津(クニツ)神の差別(ケチメ)あり。然るに、人間形勢(アリサマ)のことくに書(カキ)たる書(フミ)を見馴(ミナレ)たる心には、染かたかるへし。暫(シハラク)草垣葉(クサノカキハ)も言止(コトヤメ)て、慇懃(子モゴロ)に見給はらば、老翁(ヲヂ)が幸(サイハヒ)ならむ。
〇文字なき時の学なれば、更に文字によるなし。書籍(フミ)なき時のまなびなれば、更に引書なし。只(ただ)布斗麻邇(フトマニ)の御灵に卜相(ウラベ)て、五十連十行の形仮名をもて解分(ときわくる)なり。
〇文字なき時のをしへなれば、文字もて書得(カキエ)かたきことあり。そは多は形をもていふ。亦、文字も多は義訓を用。或は水火(イキ)、火水(カミ)、火水(ホシ)、水火(シホ)、日月(イキ)、陰陽(イキ)なとの類、皆其義によるの訓なり。
〇五十連(イツラ)は、天地自然(オノツカラ)の音(コヱ)にして、神の灵(レイ)なり。故に、儒仏は更なり、一天四海にわたりて、道といふ道に響(ヒビ)かすといふことなし。則、日月(カミ)の学なればなり。天より見(みる)かのことく、天より聞(きく)かことし。故に彼(カレ)に暗(クラク)して、此(コレ)に明(アキラカ)なりと差別(シャベツ)をいはす。
〇古事記深秘(シンヒ)の伝は、別に火水與伝(カミヨノツタヘ)といふ一書をもていふ。此巻中に其(ソノ)断(コトワリ)有は則是なり。
〇巻中総て和漢(ワカン)を交(マジヘ)て、文の抽(ツタナキ)をいとはす。そは只(タタ)他(ヒト)の読易(ヨミヤス)からむことを専(モハラ)とするの故なり。見る人の察(さっし)給(たま)ふへし。
(山口志道「言霊秘書」p.6-10)
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皇国の学(1)
◎皇国(ミクニ)は、原(モト)より文字ちふものなく、言灵(コトタマ)の佐国(タスクルクニ)にして、五十連(イツラ)十行の形仮名(カタカナ)は神代の御書(ミフミ)なり。是をもて、天地及万物の初発(ハジマリ)を知て、一として足はすといふことなし。
◎布斗麻邇(フトマニ)の御灵は水火(イキ)の御伝(ミツタヘ)にして、形仮名(カタカナ)は神の御名ことより現(アラハ)るゝことを悟(サトル)。
皇国の学(2)
◎皇国(ミクニ)の学は、万物一に止(トトマル)ことを原(モト)とす。
・天地初発(アメツチノハジマリ)に一の凝(コリ)をなす。※ホ(ホチ)
◎その凝(コリ)より火水(ヒミツ)の二ツに別つ。※フ(フタツ)
・火を父といふ。※ヒ
・水を母といふ。※ミ
◎父の火灵(カタマ)と母の水灵(ミタマ)と與(クミ)て、亦一ツの凝(コリ)をなす。
・凝の重(オモク)濁(ニゴリ)たるは形となる。
・凝の軽(カルク)澄(スミ)たるものは息となる。
◎その息母胎(ホタイ)を出て高(タカク)現(アラハレ)たるを音(コヱ)という。
・その音(コヱ)の五十連(イツラ)なるを言灵といふ。(五十連の音に灵有て活用を云)。
◎言々は、三つを與(クミ)て詞をなす。
・幸(サキ)有
・佐(サスケ)有
・火水(ヒミツ)有
◎詞は音(コヱ)のみにして眼(メ)に見ること難(かたし)。
・眼に見するものを形仮名(カタカナ)といふ。
・形仮名をもて五十連の十行を記(しるす)。
◎火水(ヒミツ)の言(コト)々を與(クミ)開(ヒラキ)、躰(タイ)用(ヨウ)軽(ケイ)重(チウ)清濁等の法則をもて、詞の本を明にし、天地の水火(イキ)を人間(ヒト)の水火(イキ)と同一なることを知りて、家国を治の本は己(オノ)が呼吸(コキフ)の息にあることを知る。
◎博(ヒロク)天地のことわりを知ると欲せば、近は己か水火(イキ)を知にあり。是ぞ神国の教なる。既に古事記の神代(カミヨ)の巻と唱るも、火水與(カミヨ、イキクム)の巻と云義にして、天地の水火(イキ)を與(クミ)て万物を生し、人間(ヒト)の水火(イキ)を與(クミ)て言(モノイフ)ことの御伝(ミツタヘ)なり。
皇国の学(その3)皇国の学(1)
◎皇国(ミクニ)は、原(モト)より文字ちふものなく、言灵(コトタマ)の佐国(タスクルクニ)にして、五十連(イツラ)十行の形仮名(カタカナ)は神代の御書(ミフミ)なり。是をもて、天地及万物の初発(ハジマリ)を知て、一として足はすといふことなし。
◎布斗麻邇(フトマニ)の御灵は水火(イキ)の御伝(ミツタヘ)にして、形仮名(カタカナ)は神の御名ことより現(アラハ)るゝことを悟(サトル)。
皇国の学(2)
◎皇国(ミクニ)の学は、万物一に止(トトマル)ことを原(モト)とす。
・天地初発(アメツチノハジマリ)に一の凝(コリ)をなす。※ホ(ホチ)
◎その凝(コリ)より火水(ヒミツ)の二ツに別つ。※フ(フタツ)
・火を父といふ。※ヒ
・水を母といふ。※ミ
◎父の火灵(カタマ)と母の水灵(ミタマ)と與(クミ)て、亦一ツの凝(コリ)をなす。
・凝の重(オモク)濁(ニゴリ)たるは形となる。
・凝の軽(カルク)澄(スミ)たるものは息となる。
◎その息母胎(ホタイ)を出て高(タカク)現(アラハレ)たるを音(コヱ)という。
・その音(コヱ)の五十連(イツラ)なるを言灵といふ。(五十連の音に灵有て活用を云)。
◎言々は、三つを與(クミ)て詞をなす。
・幸(サキ)有
・佐(サスケ)有
・火水(ヒミツ)有
◎詞は音(コヱ)のみにして眼(メ)に見ること難(かたし)。
・眼に見するものを形仮名(カタカナ)といふ。
・形仮名をもて五十連の十行を記(しるす)。
◎火水(ヒミツ)の言(コト)々を與(クミ)開(ヒラキ)、躰(タイ)用(ヨウ)軽(ケイ)重(チウ)清濁等の法則をもて、詞の本を明にし、天地の水火(イキ)を人間(ヒト)の水火(イキ)と同一なることを知りて、家国を治の本は己(オノ)が呼吸(コキフ)の息にあることを知る。
◎博(ヒロク)天地のことわりを知ると欲せば、近は己か水火(イキ)を知にあり。是ぞ神国の教なる。既に古事記の神代(カミヨ)の巻と唱るも、火水與(カミヨ、イキクム)の巻と云義にして、天地の水火(イキ)を與(クミ)て万物を生し、人間(ヒト)の水火(イキ)を與(クミ)て言(モノイフ)ことの御伝(ミツタヘ)なり。
◎天地の間に眼に見えざるの火水(ヒミツ)あり。
・これを、火水(カミ)といふ。水火(イキ)ともいふ。
・神(カミ)と唱(トナフ)るは躰(タイ)、水火(イキ)と唱るは用(ヨウ)。
・故に、陰陽(イキ)と陰陽(イキ)と與(クミ)て万物を産(ウム)。
皇国の学(その4)
◎人間(ヒト)の胎内(タイナイ)に火水(ヒミツ)あり。
・これを、灵水火(タマシヒ)といふ。氣(イキ)ともいふ。
・魂(タマシヒ)と唱るは躰にして、息(イキ)と唱るは用なり。
・故に、息と息と與(クミ)て言(モノイヒ)、氣(イキ)と氣(イキ)と與(クミ)て人を産む。
皇国の学(その5)
◎天地は水火(イキ、シホ)の凝(コリ)なり。
・故に、日月の運行(メクル)は天の呼吸(コキフ)なり。
・汐(シホ)の満干は地の呼吸なり。
・人も水火(イキ、シホ)の凝(コリ)なり。
・故に、人の呼吸は波の列(ツラナル)に同じ。
・波もよする時に音(オト)をなして、引時に音(オト)なし。
・人も出息は音(コヱ)をなして、引息に音(コヱ)なし。人則(すなはち)小天地なり。
皇国の学(その6)
◎(マコト)の火は象(カタチ)なし。是を火の躰(タイ)といふ。象(カタチ)を見する時は火中に水有。故に燃(モユル)。是を火の活用(ハタラキ)といふ。
◎実(マコト)の水は象(カタチ)なし。是を水の躰(タイ)といふ。象(カタチ)を見する時は水中に火有。故に流(ナカル)。是を水の活用(ハタラキ)といふ。
皇国の学(その6)
◎火水・躰用・右左
・火は躰にして水を動す。水は用にして火に動さるゝ。
・火は動すして音(コヱ)なし。水は動て音(コヱ)をなす。
・総て動さるものは火にして、動ものは水なり。
・故に、水に名をなすと云とも、動さるときは火なり。
・火に名をなすと云とも、動ときは水なり。
・譬(タトヘ)ていはゞ、水氣(ミキ)は水の名なり。火垂(ヒタリ)は火の名なり。
皇国の学(その7)
◎火水躰用(ヒミツタイヨウ)は活物(クワツブツ)にして相対して動。
・天地の水火(イキ)回(めぐる)ことかくのことし。
◎右の手をもて左を打つとき、右の水は火となり、左の火は水となりて音(オト)をなす。
◎木は水なり。鐘(カ子)は火なり。
・木をもて鐘を打つときは、鐘(カ子)は水となりて音(オト)をなし、
・鐘をもて木を打つときは、木は本の水となりて音(オト)をなす。
《凡例》
※省略
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水穂伝(岡本天明口語訳より)
〇皇国(みくに)はもとより文字というものなく、言灵(ことたま)の佐国(たすくるくに)にして「五十連(いつら)十行」の形仮名(かたかな)は神代の御書(みふみ)なり。
この御神書をもちて、天地及び万物の初発(はじまり)を知りて一として足わずということなし。
然るに人皇十六代、応神天皇の御宇、百済(くだら)より王仁(わに)来りて多くの書籍を奉り、それより漢国(からくに)の学、代々に行われたる時に、人皇四十代、天武天皇の朝、神代の旧辞(ふること)、既に滅びんことを潭(ふか)く憂いたまい、稗田ノ阿礼に天皇大御口(おおみみくち)ずから御教えおかれ給えるを、人皇四十三代、元明天皇の朝に至りて、和銅四年、太(ふとの)朝臣安万侶(やすまろ)に詔命(みことのり)ありて、阿礼が覚えたる神代の御伝を文字に記させ、「古事記」(ふることみふみ)と号(なづ)けて、皇国の大道(みち)を残しおかれ給う。
既に柿本人麿の歌に志貴島倭国者事霊之所佐国叙真福与具(しきしまのやまとのくにはことたまのたすくるくにぞまさきくあれこそ)」と共に、神代の正言(まさこと)失い果てんことを惜まるるといえども、事灵の学は神の御伝にして凡人(ただひと)の耳に入ること難く、文字の学は人の学にして凡人の眼に入ること易く、人の学に於て文字ほど易きはなし。
故に、人の代々移り変る天地の自(おのづか)らにして何時か文字に眼うつりて、その源をすて、流れに染み、言灵の学は踈(おろそか)になり、寛弘(1004-1012)、長和(1012-1017)ころまでは行われて明かなるも、後に至りて知れる人も稀にて、竟には幾百年の間、知れる人もなくなりにけり。
然るに、享保の頃、荷田東麻呂(かだのあずままろ)翁、神代の言灵「稲荷の古伝」にあることを社務親友(ちかとも)卿の伝によりて説かれしといえども、いまだ時の至らざるにや、その学の潭(ふか)きを継ぐ人なく、今の代となりては言灵の名のみありて、その法則を知る人もなく(今の人、言灵を唱うるも、そは異説なり)、次第に俗学になれて、只博く書籍をのみ見て、法則もなく、彼方の詞と此方の詞を見合せて憶度(おしはかり)に解き、文字より外に拠(よりどころ)なければ、他の国の文字がわが国の文字の如くなり。わが国の詞は他の国の詞の如くなり、可憐(あわれ)掛麻久母阿夜爾畏伎(かけまくもあやにかしこき)「神代の御伝」は(かくろ)いたまいたるにや。
茲(ここ)に己(おのれ)、末の世に生きて常にわが言(ものいう)ことの本をも知らずして過ぎ行くをばかなしみ、若かりし頃より、思い悩むといえども、ながれをおきて何の渚(なぎさ)にかよらむ。かかるに、吾家に古くよりて「布斗麻邇之御灵」(ふとまにのみたま)と言う御伝ありて、小社の内に祭る。この御伝の御灵は「五十連(いつら)の十行」を記したるものにして、ことの心も別け難かりけり、然はあれども古今の言葉をかき集め、博く天地の万物に合せて、古事記神代巻に照し見て、三十年余にして竟に「布斗麻邇の御灵は水火(いき)の御伝」にして「形仮名(かたかな)は神の御名」ことより現わるることをさとりぬ。かくて、曙ようやく白くして樹々の言葉(ことのは)も文分(あやわか)る頃、文化十二年長月の末にいたり、下総の荷田訓之(のりゆき)大人、吾庵を尋ね来て「古伝」なるものを授けたり。
然してその「古伝」と「布斗麻邇の御灵」と合せて、その余れるを省き、足らざるを補い、更に日夕研究に研究を重ね、これ努めて御灵の真灵(またま)なることを悟りたり。
〇皇国の学は万物一に止ることを原(もと)とす。故に天地初発(あめつちのはじめ)に一の凝(こり)をなし、其凝より火水(ひみつ)の二つに分れて、火を父といい、水を母という。その父の火灵(かたま)と母の水灵(みたま)を与(く)みて亦一つの凝(こり)をなす、その凝の重く濁りたるは「形」となり、軽く澄みたるは「息」となる。その息、母胎を出て高く現れたるを「音」(こゑ)という。その音の五十連なるを「言灵」という(五十音に灵ありてその活用(はたらき)をいう)。その言々に幸(さき)あり、佐(たすけ)あり、火水(ひみづ)あり、これを与(く)みて詞(ことば)となす。然はあれども、詞は音のみにして眼に見ること難かるを、眼に見するものを「形仮名」という。その形仮名もて五十連の十行を記し、火水の言々を与み開き、体用、軽重、清濁等の法則をもて詞の本を明にし、天地の水火(イキ)と人間(ひと)の水火(イキ)と同一なることを知りて、家国を治むるの本は己が呼吸の息にあることを知る。博く天地のことわりを知らんと欲せば、近くは己が水火(イキ)を知にあり、是ぞ神国の教なる。既に、古事記の神代(かみよ)の巻と唱うるも「火水與」(かみよ)の巻という義にして、天地の水火(イキ)を与みて万物を生じ、人間(ひと)の水火(イキ)を与みて言(ものいう)ことの御伝なり。
〇天地の間に眼に見えざるの火水(ひみづ)あり、これを火水(カミ)という。水火(イキ)ともいう。神と唱うるは体(たい)にして、水火(イキ)と唱うるは用(よう)なり。故に、「陰陽」(いき)と「陰陽」を与みて万物を産むなり。
〇人の胎内に火水(ひみつ)あり。是を「灵水火」(たましひ)という。気(いき)ともいう。魂と唱うるは体にして、息と唱うるは用なり。故に息と息と与みて言(ものい)い、気と気と与みて人を産むなり。
〇天地は水火(いき)の凝なり。故に日月の運行(めぐる)は、天の呼吸なり、汐の満干は地の呼吸なり。人も水火(いき)の凝なり。故、人の呼吸は波の列(つらなる)に同じ、波もよするときは音をなして、引くときは音なし。人も出息は音(こゑ)をなして、引息に音(こゑ)なし。人則ち小天地なり。実(まこと)の火は象(かたち)なし。これを火の体という。象を見るときは火中に水あり。故に燃ゆるなり。これを火の活用という。実の水は象なし。これを水の体という。象を見るときは水中に火あり。故に流るるなり。これを火の活用という。
〇火は体にして水を動かす。水は用にして火に動かさる。火は動かずして音(こゑ)なし。水は動きて音(こゑ)をなす。総て動かざるものは火にして、動くものは水なり。故に水に名をなすというも、動かざるときは火なり。火に名をなすというも、動くときは水なり。譬えて言わば、水気(みき・右)は水の名なり。火垂(ひたり・左)は火の名なり。然は言えども右の手をもて左を打つ時は、右の水は火となり、左の火は水となりて音(おと)をなす。亦曰、木は水なり、鐘は火なり。木をもって鐘を打つ時は、鐘は水となりて音(おと)をなし、鐘をもって木を打つときは、木は本の水となりて音(おと)をなす。火水(ひみつ)躰用は「活物」(いきもの)にして相対して動く。天地の水火(いき)回(めぐ)ること、かくの如し。
《凡例》
〇この書は「布斗麻邇之御灵」(ふとまにのみたま)をもって神代の旧辞(ふること)を解き分くるの法則を詳(つまびらか)にす。
〇五十連の十行は所謂「神代の経学」なり、尋常(よのつね)の書籍とは異なり、神の御心と人の心とは隔りあるの故なり、後世に及びては神代の御典(みふみ)を解き、人間の形勢(ありさま)の如くに云うは僻(ひが)ことなり。
〇天津神、国津神の差別(けじめ)あり。然るに人間の形勢(ありさま)の如くに書きたる書を見馴れたる心には、染み難かるべし。しばらく草の垣葉も言止(ことやめ)て、ねんごろに見給わば老翁が幸ならむ。
〇文字なき時の学なれば、更に文字によるなし。書籍なき時の学なれば、更に引書なし。只(ただ)、布斗麻邇の御灵に卜相(うらえ)て、五十連十行の形仮名をもって解き分くるなり。
〇文字なき時の教えなれば、文字をもって書き得がたきことあり。そは多くは形をもって云うなり。亦、文字も多は義訓を用い、或は、水火(いき)、火水(かみ)、火水(ほし)、水火(しほ)、日月(いき)、陰陽(いき)などの類は皆その義によるなり。
〇五十連は、天地自然の音(こゑ)にして神の灵なり、故に儒仏は更なり、一天四海に亘りて道という道は響かずということなし。則ち日月(かみ)の学なればなり。天より見る如く、天より聞く如し。故に彼は暗くして、これは明かなりと差別を云わず。
※※※
〇古事記深秘の伝は、別に「火水與伝」(かみよのつたえ)と云う一書をもて云う。此巻中にその断(ことわり)あるは則ちこれなり。
※訳者曰:「火水与伝」は古事記神代巻の天地の気(いき)のひらき及び神の御名により、その御形により形仮名が自然と現わるることを詳述したる秘書なり。草稿のみにて遂に出版に到りしを聞かず、写本として千葉県下…志道大人は安房国吉尾村の産なり…にある筈なり。
〇亦、巻中総て和漢(わかん)を交えて、文の拙をいとわず、そはただ他の読み易からんことを専らとするの故なり。見る人察し給うべし。
〇この書は、天保二年正月、丹州亀山、福井清秀主の許に筆を始めて、同四年正月、京都因幡堂西坊に於て一より六の巻に到りて書き畢る。
杉庵 山口志道しるす。

記事更新日:2026/10/17














































































